The cat once I lived with

定本こっそり日記

2024年12月6日金曜日

ティク・ナット・ハンの本


私は、お寺が経営する幼稚園に通っていた。
3歳で死んだ私の長兄が、その幼稚園に通いたいと言っていた。
私の両親は、その幼稚園を経営するお寺の宗派に改宗した。
そして、幼稚園の裏山の上に墓をつくり、長兄を葬った。

母は長兄が死んでからしばらくのあいだ、毎日長兄の墓に通った。
墓の前で母が手を合わせていると、寺の先代の住職が後ろでお経を唱えてくれていた。
次兄がその幼稚園に入ったとき、その優しかった先代の住職が亡くなった。
次兄は別の園児と2人で住職の葬儀の時にお別れの言葉を読んだ。

両親が営んでいた店の屋号が入った大量の座布団が、まだその寺にあるはずだ。
両親が寄付したものだ。
両親は初めてできた男の子を失ってから、熱帯魚をたくさん飼った。
それから鳥を飼った。

しばらくして次兄が生まれた。
次兄が男の子だったので、父は母にダイヤモンドの指輪を買い与えた。
父は自分の商売の跡継ぎがほしいと考えていたのだろう。

そこから更に月日が過ぎ、両親が42歳の時に私が生まれた。
父は、もし3番目の子が女だったら、産院に置き去りにしようと次兄に話していた。
つまり女の子は要らないということだ。

そのとき次兄は5歳だった。
父のその話を疑うことはなかっただろう。
しかし、いざ私が生まれてみると父は私を溺愛した。

次兄の気持ちを考えると、とてもかわいそうだ。
私は私で、くり返し母からここまで書いたエピソードを聞かされていた。
私は自分が、ほんとうは必要とされていなかったのだというように理解してしまった。

どうしてこんな話を書いているのだろう。
そうだ、仏教と私のつながりについて書きたかった。
ティク・ナット・ハンはヴェトナム出身の仏僧だ。

1967年のノーベル平和賞候補として、彼をマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が推薦した。
ティク・ナット・ハンはワシントンDCで反戦をうったえたかどで帰国できなくなった。
そしてフランスに亡命した。

ティク・ナット・ハンの、今このとき、すばらしいこのとき、という本を図書館で借りた。
私にとって実に学ぶところの多い本だ。
まだ読み終えていない。

私は、ふだん自分のことを疎かにしがちだ。
以前は呼吸をすることを忘れることさえあった。
頭の中で過去の葛藤と未来への不安が渦を巻いていた。

ティク・ナット・ハンは、ブッダの教えを分かりやすく書いている。
特に、呼吸に集中することをくり返し説いている。
息を吸うときに体を静め、息を吐くときにほほえむ。
口の形だけでなく、目にもほほえみを浮かべるように書いてあった。

私が幼稚園で教わった仏教の物語で、ポストマニというのがあった。
ポストマニはネズミだった。
人間が楽しそうに暮らしているのを見ては、人間になりたいと常に願っていた。

あるときポストマニの願いがかない、ポストマニは人間の女性になった。
それも裕福な女性だった。
ポストマニは毎日ごちそうを食べて楽しく暮らした。

そこへある日、ネズミだった頃の親兄弟がやってきて、ポストマニにこう言った。
食べものを恵んでおくれ。
ポストマニはこう答えた。
あんたたちなんて知らない。
ネズミども、あっちへ行きな。

その瞬間に世界が暗転した。
ポストマニはネズミに戻っていた。

私は熱心な仏教徒ではないが、こうした物語の数々を毎月配られる冊子で読んでいた。
そして毎月、寺の本堂で数珠を持ち、ののさまに手を合わせた。
ののさまというのは、おそらくブッダのことではないだろうか。

今このとき、すばらしいこのとき、は現在を慈しみ、過去や未来にわずらわされないために唱えるガーターを集めた本だ。
ガーターは短い詩のようなものだ。
生活のありとあらゆる局面のガーターが書いてある。

私が読んですぐに覚えたのは、服を着るときに唱えるガーターだ。
と思ったけれど今忘れていた。
「服を身に着けるとき 服を作った人たちと 服の素材に感謝する 誰もが服に困りませんように」 というものだった。

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